散文

 

 

電車の中で国宝「鳥獣戯画」のニュースを見た。

 

丁度この前、前のバイト先の後輩の芸大生とカレーを食べに行った時にリザベーションカードがそれだったみたいで、私にそういう学はないので「鳥獣戯画ですね」と言われた時は「あ、ナルトのね?」とか、アホ丸出しの返しをしてしまって「ナルトですか?」と逆に返されて時が止まった。

 

 

そもそも、「忍法・鳥獣戯画」が出て来た時点で「鳥獣戯画ってなんだろな?」となっていればこの件は必要が無かったわけであって、そう考えてみると、クエスチョン→サーチは割と高頻度に行っている自覚があっても、やっぱりどこかで手を抜いているところがあって、23年目にして気付いたということは、23年分のそういったロスがあらゆるところに潜んでいるということになる。

 

 

日々、頭の中だけで、雑に解釈をして不適当な取捨選択を片手間でやっつけ、可能性と発見と感動をぼろぼろと零しながら、無意味に歩いてしまっている。

 

 

布団に潜って意識を手放すまでをゴールにして、細かく終着点を決める事で何かから逃げているような気がする。

 

 

起きて、動いている間はそんなことを忘れてしまっていて、あたかも日々懸命に過ごしているかのように、堂々と地面を踏みつけて、いのちを食らって、心を満たすために金をつかう。

 

 

減った分を補填する為にまた動いて、人格をつくりこんで、何かを装って、酸素から二酸化炭素をつくりだして、繰り返すうちに罪をわすれて、自分を高尚な生き物であるように錯覚しだす。

 

 

べつに、悪いことではないと思っているけれど、そうして失って失わせて奪って奪われて殺して殺されたなにかが、オートで、補充されている、とかそんなわけないし。

 

 

亡くなった分は亡くなった分として、そこでそれからいつまでか、ずっと、容れ物であるわたしが消えるまで、そのままだと思うと、少しだけ苦しい。

 

 

ところで君は、それが鼻腔を通った瞬間に嗚咽が止まらなくなるような、悲しい香りを嗅いだことはありますか?

 

 

聴覚と視覚と嗅覚から一気に情緒が刺激されると、一時的に脳内で情報のハウリングみたいなのが起こる間隔に陥る事が時々あるのだけれど、それが起こる直前(というかほぼその瞬間)に、「あ、これはやばいな」みたいな、所謂、第六感?違うか。まあそんなんが赤信号を出すわけなのだよね。

 

 

最近で言えば、いきなり一人六本木に放り出されてさあて何をしようかな、今って森美何やってんのかな?とかそんな軽い気持ちで塩田千春の個展に凸した時に同じ現象に見舞われたけど、あの感覚を可視化する事について、可能か不可能かで言えば可能ではあるけれど、他人に伝える事が出来るか否かと問われるとまず「不可能」に近いような気がする。仮に私に双子の姉妹がいたとしても、その人でもきっと不可能。

 

 

 

前置きが長くなったけど、まあそんなこんなで今朝の私は某他称オシャレタウンのスタジオに向かう最中、BGMはずっとマスロックだったのね。それでもって、くたくたに日焼けした顔面大の「大感謝セール」のシールが店の壁に6つも貼ってある昭和の化粧品屋みたいな建物の前を通ったわけ。

 

周りは今時のパン屋、カフェ、開店前のバー、小洒落たビルとかマンションとか、高そうな犬連れたグラサンマダムとか、ど平日の昼間から気合い入ってる感じの若い女の子たちとか、そんなので構成された環境なのに、そこだけ時間止まってんのかなってぐらい切なかったわけ。

 

 

もうこの耳と目からの情報セットでも十分情緒的だったのだけど、私の右後ろから追い抜いていった女の人の香水の匂いがどうしようもなかったのですよね。

 

 

どうしようもないって何だよって感じなのは分かっているんだけど、どうしようもないことはどうしようもないじゃない、小学校の先生も中学校の体育の先生も、高校の生活指導の先生もそういう類の決まり文句はよく使っていたでしょう。

 

 

匂いに置いて行かれたわけだよ、私はよ。

 

 

いや、置いて行かれたのが匂いなのでは?と普通は思うのでしょうけどね、確かに私はあの時あの場所であの瞬間、匂いに手を離されて迷子になったのだよ。

 

 

嗅いだことのある匂いってわけでもなかったのに、嗅覚の記憶と視覚の記憶と聴覚の記憶の三つの円が重なった部分に私は吸い込まれてしまって、屋内に入った瞬間に「悲しい」が食道を逆流して大気に同化した。同化、しました。

 

 

私の思い出したくない香りは確かにブルガリだったはずなのに、全く違う全然爽やか(褒めてない)な香りだったはずなのに、甘い香木みたいなむしろ大好きな香りに「好き」と「嫌」がくっついたような感情(ここではこれを「正の拒絶反応」とします)を連れてこられて、午前中から、そんなことをされて、文字を並べたくて仕方なくなってしまい、こんな散文をつくるに至ってしまった。

 

 

というところ。

 

 

「正の拒絶反応」とか言ってるけど、なんか大層なネーミングかましてしまっているけれど、冷静に考えてみるとこんなのは日常のあらゆるシーンで出てくるね。

 

 

酒飲みの減量中の飲み会とか、カフェイン摂りすぎた日曜日の夜とか、あとはそうですね、辞めたい依存、とか。

 

 

ちなみに今私は喫茶店でパソコン開いてるわけなんだけれど、美容室の時間とその前の用事との間に4時間も空いてしまったからこんなことになっているのよね。誰だよ丁度良い時間帯に先にスタジオ押さえた人間。完全敗北じゃないの。

 

 

悲しいね。

 

 

もう少しだけだらだらしていたいなー。

 

 

そう言えば、歌詞作ること「想いの供養」とか言っちゃうキャラかなんか実在する人間か忘れたけど、そんなのが在った気がするな。

 

 

文を書くこともそれを音楽の一部にすることも、なーんにも供養になってないと思うんだけど。目に見えるようになった感情なんてただのレントゲンだし、燃えて灰にでもなってくれれば少しは丸く収まりそうなサイズにはなると思うけど、本当に想いを供養したいのなら100円ぐらいで売り飛ばして手放したほうがよっぽど成仏するんじゃねえんですかい旦那、ねえそうでしょうが、私結構割と本気で尤もなこと言っちゃってんじゃねえんですかい旦那。

 

 

とか何とか言っちゃってますが、供養したいと思って文字書いてるやつなんて私みたいに結局手放したいわけではないんだよなあみたいなのが多いような気がしてきたなあ。

 

 

本当は庭に埋めずに、どっかでフリーズドライとかしてたら、しんじゃったあいする僕のインコはまた帰って来たりするんじゃないかしら。なんて思ってたりして。

 

 

おとなだから、みんな、きっと本心でそんなことを思ってはいないけど、せめて思うぐらいはさせてください課長、今日は会社休みます。あ、有給で、はい。とかのあれでね。知らんけど。

 

 

おとなだからね、おとなだからさって、そうやって生きて行かないと世間様の目がねえ、あるからねえ。って言って川流れてやっと海だ、となった頃にはもう最初の面影なんてどこにも無くなってしまって、そのまま波に揉まれて洗われて砕けて小さくなり、みんなよく似た、同じような形の、丸い砂利になって、沈んで重なって出来たのが、キレーなあの砂浜なのだろうね。

 

 

おとなは砂で、社会は砂浜なのかもねえ。

 

 

あれよ、シーグラス。シーグラスってもともとゴミじゃないですか、でも、砂と同じフローで削れて磨かれて丸くなったらあんなに良い感じに綺麗な物体になっちゃうよね。皮肉も良いとこだね。ははは

 

 

どっちがダメでどっちが良い、とか思ってないし、なんかどっちも良さそうだなあと思うけど、今は砂になりたい。

 

 

私、砂になりたいです。

 

 

シーグラスで思い出したけど今月二回もUSBの変換プラグ忘れて往生してんのよねー。ゆーえすびーしーに変換するやつ。それ買うために今日受付のお兄さんに借りたママチャリでアメ村爆走してアップルストア行った。

 

 

いつの間にかiPhoneは12まで出てて、小雨の小雨みたいな雨の中で2分ぐらい列並んでる時に中学生の頃に初代iPhoneでデコログやってたん思い出したわ。歴史感じた。

 

 

プレステは10ウン年で2から5になったというのにね。テクノロジーの進歩に追いつき追い越し追い越され、繰り返すうちに私たちまた大きくなるのかしらね。

 

 

 

楽しみだけど紙ベースの書籍と右から読む日本語ポスターなんかは100000000年後ぐらいまでは残ってて欲しいよ。

 

 

 

 

 

せめてUSBよりも長生きしてくれますように。