物心ついた頃から1週間のうち5.6回、寝る時目瞑ると必ず浮かぶイメージがあって、言葉で説明出来ないけどかなり具体的なそのイメージが突然言語化可能な形態に今日進化した。

 

昨日(厳密に言うと2日前)までは、立体的な円筒状或いは球状の中に紙みたいな形の平面のものと魚?みたいなものが"気持ちよく"ランダムに並んでて、安心するっていうイメージ。

 

で、それがさっき突然、何もない部屋(1Rぽいフローリングの部屋)の真ん中にダンボールがポツンと置いてあるイメージ(これは最早イメージよりも遥かに鮮明)と、同じ間取りの同じ画角の部屋に立体と背面と、立体的な文字と綺麗なゴミ?みたいなのが"気持ちよく"ランダムに並んでるイメージが、交互にというより、同時に(ここでは一旦『同時』って表現で対応しとく)出てきて、旧形態と同じ安心感は健在してた。

 

同時にっていうのは要するに「シュレディンガーの猫」的な現象で、まあちょっと違うけど、そこにあってそこにない、みたいな。まずそもそも頭の中のイメージの話だから、実在するか否かは言うまでも無くて、実在しないことを前提としたい。それからやっと、脳裏に浮かんで来てるって事実のみを根拠にその現象を類推適用しつつ当てはめていこうという訳ですが、何もかもがおかしな話ということは、まあそれはそうなんですけど、でも本当にそのぱらぱら漫画に近くて全然違うみたいなそのおかしなイメージに睡眠を妨害されたこともまた事実なのでちょっと困るかなって。

 

実在しないということは確認が不可能ということだから「そこにあって・そこにない」っていう半生半死みたいな状態は許容していこかなと思うけど。

 

と、ここまでわざわざ書き残して、問題なのはこの状態ではなくイメージの突然変異だったことを思い出してがっかりした。

 

 

頑張ること、働くこと、生きることは素晴らしいと、健康診断オールパスするような人間が声高らかに曰う。この事象はおそらく殆ど宗教に近いような気がする。

 

 

生まれる時代、場所、関わる人間、全ての分岐するタイミング、そもそも生きることそれ自体さえも自己の意思の外側で決定され、決定され続け、煽動され、嬲られ、絶望と希望をうまい具合に与えられ続けて、そうしているうちに何度も何度も陽は沈み昇り、身体は衰え精神は穏やかに衰弱していく。

 

 

結局のところ、完全なる自由意思によって決定出来る物事なんてこの世に一つもないんじゃないかと思う。

 

 

社会性という皮を被って、道徳という檻の中で、純粋な欲望と社会的責務、化け物二体が食い殺し合う真中で骨になるまで振り回されるしかないんじゃないのかと思うし、仮に生き延びられたとして、この化け物共の決着が着いてしまった時に残ったその物体を私と呼べるのか、全くもって自信がない。

 

 

生きたくないという願いが成就することを熱望する反面、生きることを許されたいと願う自分がいることもまた完全に事実であって、今みたいな気持ちになると正直なところ寝ても覚めてもその事ばかりが頭の中にあるというほどに、私の願望の少なくない領域を占めている。

 

 

自分で自分を許す事が出来ないことに十代で気付き、二十代で確信し、諦めた。私は一生自分の存在を許せないし、誰かに望まれない限りきっとこのまま、毎日毎日ケロイドまみれの心臓を、自分自身で握り嬲り続けるだけの、余生である。

 

 

「若いね」ではない、私はもうすでに人生を殆ど終えている。

 

 

不安と恐怖に殺される前に自死を選びたい。

 

体内空気、汚染

 

 

過去最大級に落ちている。なんかこの過去最大級の落ち込み、毎回更新してるから歳を重ねる毎に特に器が爆発的にキャパアップしてる訳でもないのにただひたすらに年々傷つき落ち込みやすくなっていってるだけの気がしてきた。

 

自分に自信がある・ないの話になるといつも「そんなもんあるわけねえだろうがよ…」と思いつつさらっと濁す。というのも自信がある部分と死ぬほど自信ない部分が部門別で複数存在してて、それらが組み合わさった末の自分だと思ってるから結局総合点として「自信ある」ライン超えてても各部門についての話になってしまうと唐突に死にたいが爆裂してしまう。

 

そしてその死にたいの衝動を抑える理性が不幸にも自分の中の自分に対する希望ではなく「あ、私が今死んだらあの人たちが悲しんじまうな」で、なんかこの感情というか理屈に名前が欲しくて最近その辺の空想世界を時々彷徨ってる。

 

幸せってなんであんな刹那的なんだろ、持続力の無さに文句言いたくなるんだけどそれに対して悲しみってなんでこんなにしぶといんだろうな。たぶんどっちも同じぐらいの持続力はあるんだろうけど。これも相対性理論なのか。

 

ミスをしたらとんでもねえ自意識過剰に陥ってしばらくそのこと以外まともに考えられなくなる性格のせいで一体今までどれくらい生産効率下げて来たんだろ、考えただけでゾッとしたのでやめた。あーあーあー!

 

次なにかで成功体験を獲得するまで引きずるんだろうけど、その機会がしばらく無いように思うのでまたしばらくはこのまま底辺を彷徨い続けようと思う。身体中に充満した憂鬱を誰か吸い出してくれ…

散文

 

 

電車の中で国宝「鳥獣戯画」のニュースを見た。

 

丁度この前、前のバイト先の後輩の芸大生とカレーを食べに行った時にリザベーションカードがそれだったみたいで、私にそういう学はないので「鳥獣戯画ですね」と言われた時は「あ、ナルトのね?」とか、アホ丸出しの返しをしてしまって「ナルトですか?」と逆に返されて時が止まった。

 

 

そもそも、「忍法・鳥獣戯画」が出て来た時点で「鳥獣戯画ってなんだろな?」となっていればこの件は必要が無かったわけであって、そう考えてみると、クエスチョン→サーチは割と高頻度に行っている自覚があっても、やっぱりどこかで手を抜いているところがあって、23年目にして気付いたということは、23年分のそういったロスがあらゆるところに潜んでいるということになる。

 

 

日々、頭の中だけで、雑に解釈をして不適当な取捨選択を片手間でやっつけ、可能性と発見と感動をぼろぼろと零しながら、無意味に歩いてしまっている。

 

 

布団に潜って意識を手放すまでをゴールにして、細かく終着点を決める事で何かから逃げているような気がする。

 

 

起きて、動いている間はそんなことを忘れてしまっていて、あたかも日々懸命に過ごしているかのように、堂々と地面を踏みつけて、いのちを食らって、心を満たすために金をつかう。

 

 

減った分を補填する為にまた動いて、人格をつくりこんで、何かを装って、酸素から二酸化炭素をつくりだして、繰り返すうちに罪をわすれて、自分を高尚な生き物であるように錯覚しだす。

 

 

べつに、悪いことではないと思っているけれど、そうして失って失わせて奪って奪われて殺して殺されたなにかが、オートで、補充されている、とかそんなわけないし。

 

 

亡くなった分は亡くなった分として、そこでそれからいつまでか、ずっと、容れ物であるわたしが消えるまで、そのままだと思うと、少しだけ苦しい。

 

 

ところで君は、それが鼻腔を通った瞬間に嗚咽が止まらなくなるような、悲しい香りを嗅いだことはありますか?

 

 

聴覚と視覚と嗅覚から一気に情緒が刺激されると、一時的に脳内で情報のハウリングみたいなのが起こる間隔に陥る事が時々あるのだけれど、それが起こる直前(というかほぼその瞬間)に、「あ、これはやばいな」みたいな、所謂、第六感?違うか。まあそんなんが赤信号を出すわけなのだよね。

 

 

最近で言えば、いきなり一人六本木に放り出されてさあて何をしようかな、今って森美何やってんのかな?とかそんな軽い気持ちで塩田千春の個展に凸した時に同じ現象に見舞われたけど、あの感覚を可視化する事について、可能か不可能かで言えば可能ではあるけれど、他人に伝える事が出来るか否かと問われるとまず「不可能」に近いような気がする。仮に私に双子の姉妹がいたとしても、その人でもきっと不可能。

 

 

 

前置きが長くなったけど、まあそんなこんなで今朝の私は某他称オシャレタウンのスタジオに向かう最中、BGMはずっとマスロックだったのね。それでもって、くたくたに日焼けした顔面大の「大感謝セール」のシールが店の壁に6つも貼ってある昭和の化粧品屋みたいな建物の前を通ったわけ。

 

周りは今時のパン屋、カフェ、開店前のバー、小洒落たビルとかマンションとか、高そうな犬連れたグラサンマダムとか、ど平日の昼間から気合い入ってる感じの若い女の子たちとか、そんなので構成された環境なのに、そこだけ時間止まってんのかなってぐらい切なかったわけ。

 

 

もうこの耳と目からの情報セットでも十分情緒的だったのだけど、私の右後ろから追い抜いていった女の人の香水の匂いがどうしようもなかったのですよね。

 

 

どうしようもないって何だよって感じなのは分かっているんだけど、どうしようもないことはどうしようもないじゃない、小学校の先生も中学校の体育の先生も、高校の生活指導の先生もそういう類の決まり文句はよく使っていたでしょう。

 

 

匂いに置いて行かれたわけだよ、私はよ。

 

 

いや、置いて行かれたのが匂いなのでは?と普通は思うのでしょうけどね、確かに私はあの時あの場所であの瞬間、匂いに手を離されて迷子になったのだよ。

 

 

嗅いだことのある匂いってわけでもなかったのに、嗅覚の記憶と視覚の記憶と聴覚の記憶の三つの円が重なった部分に私は吸い込まれてしまって、屋内に入った瞬間に「悲しい」が食道を逆流して大気に同化した。同化、しました。

 

 

私の思い出したくない香りは確かにブルガリだったはずなのに、全く違う全然爽やか(褒めてない)な香りだったはずなのに、甘い香木みたいなむしろ大好きな香りに「好き」と「嫌」がくっついたような感情(ここではこれを「正の拒絶反応」とします)を連れてこられて、午前中から、そんなことをされて、文字を並べたくて仕方なくなってしまい、こんな散文をつくるに至ってしまった。

 

 

というところ。

 

 

「正の拒絶反応」とか言ってるけど、なんか大層なネーミングかましてしまっているけれど、冷静に考えてみるとこんなのは日常のあらゆるシーンで出てくるね。

 

 

酒飲みの減量中の飲み会とか、カフェイン摂りすぎた日曜日の夜とか、あとはそうですね、辞めたい依存、とか。

 

 

ちなみに今私は喫茶店でパソコン開いてるわけなんだけれど、美容室の時間とその前の用事との間に4時間も空いてしまったからこんなことになっているのよね。誰だよ丁度良い時間帯に先にスタジオ押さえた人間。完全敗北じゃないの。

 

 

悲しいね。

 

 

もう少しだけだらだらしていたいなー。

 

 

そう言えば、歌詞作ること「想いの供養」とか言っちゃうキャラかなんか実在する人間か忘れたけど、そんなのが在った気がするな。

 

 

文を書くこともそれを音楽の一部にすることも、なーんにも供養になってないと思うんだけど。目に見えるようになった感情なんてただのレントゲンだし、燃えて灰にでもなってくれれば少しは丸く収まりそうなサイズにはなると思うけど、本当に想いを供養したいのなら100円ぐらいで売り飛ばして手放したほうがよっぽど成仏するんじゃねえんですかい旦那、ねえそうでしょうが、私結構割と本気で尤もなこと言っちゃってんじゃねえんですかい旦那。

 

 

とか何とか言っちゃってますが、供養したいと思って文字書いてるやつなんて私みたいに結局手放したいわけではないんだよなあみたいなのが多いような気がしてきたなあ。

 

 

本当は庭に埋めずに、どっかでフリーズドライとかしてたら、しんじゃったあいする僕のインコはまた帰って来たりするんじゃないかしら。なんて思ってたりして。

 

 

おとなだから、みんな、きっと本心でそんなことを思ってはいないけど、せめて思うぐらいはさせてください課長、今日は会社休みます。あ、有給で、はい。とかのあれでね。知らんけど。

 

 

おとなだからね、おとなだからさって、そうやって生きて行かないと世間様の目がねえ、あるからねえ。って言って川流れてやっと海だ、となった頃にはもう最初の面影なんてどこにも無くなってしまって、そのまま波に揉まれて洗われて砕けて小さくなり、みんなよく似た、同じような形の、丸い砂利になって、沈んで重なって出来たのが、キレーなあの砂浜なのだろうね。

 

 

おとなは砂で、社会は砂浜なのかもねえ。

 

 

あれよ、シーグラス。シーグラスってもともとゴミじゃないですか、でも、砂と同じフローで削れて磨かれて丸くなったらあんなに良い感じに綺麗な物体になっちゃうよね。皮肉も良いとこだね。ははは

 

 

どっちがダメでどっちが良い、とか思ってないし、なんかどっちも良さそうだなあと思うけど、今は砂になりたい。

 

 

私、砂になりたいです。

 

 

シーグラスで思い出したけど今月二回もUSBの変換プラグ忘れて往生してんのよねー。ゆーえすびーしーに変換するやつ。それ買うために今日受付のお兄さんに借りたママチャリでアメ村爆走してアップルストア行った。

 

 

いつの間にかiPhoneは12まで出てて、小雨の小雨みたいな雨の中で2分ぐらい列並んでる時に中学生の頃に初代iPhoneでデコログやってたん思い出したわ。歴史感じた。

 

 

プレステは10ウン年で2から5になったというのにね。テクノロジーの進歩に追いつき追い越し追い越され、繰り返すうちに私たちまた大きくなるのかしらね。

 

 

 

楽しみだけど紙ベースの書籍と右から読む日本語ポスターなんかは100000000年後ぐらいまでは残ってて欲しいよ。

 

 

 

 

 

せめてUSBよりも長生きしてくれますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心が折れたFPS初心者の胸中

 

 

 

PCはMacBook、入っているアプリケーションは主に音楽制作ソフトとオフィスワイ、オンラインゲームという世界とは無縁な人生を送ってきたわけであるが。

 

 

 

PCでゲームをやったのは中学の頃デフォルトアプリのチェスとソリティアに飽き始め、CSSとHTMLをコンプリートし、日々の鬱憤が溜まり始めた頃に魔が刺して始めた「マビノギ」が最初で最後(結局容量がデカすぎてPCが重くなったのですぐにやめた)。

 

 

 

そんな私が最近密かにFPSに興味を持ち始めたきっかけはスマホアプリのストリートファイター(確か600円ぐらいで買った)で、これはFPSとは関係ないけど、架空の世界で「闘う」という行為に触れ、実感した「興奮」、まさに血沸き肉踊ったあの感覚に惹かれていることに気付いたことだった。

 

 

 

そして流れに任せるが如くアプリ版CoDをダウンロード、初戦で18キル。

 

 

 

「あれ、もしかしてこれ才能あるのでは?」

 

 

 

そんな浅はかな慢心。奢りもいいところである。

 

 

 

ゲームセンターのよくある戦争系アトラクションでも大概男の子顔負け、ドン引かれハイスコアを叩き出しまくっていた私は容易に調子づいてしまった。

 

 

 

そして来たる3月某日(日にち忘れたから某とか言ってるけど別に伏せる必要とか全くないわけだよね)、遂にAPEX Legendsシーズン8のNintendo Switchバージョンがローンチされ、調子づきまくりにまくってまくりまくりまくった私は即刻入手したのだ。…これが悲劇の始まりになるとは知らずに。

 

 

 

そして意気揚々とプレー開始。

 

 

 

射撃訓練場でよく分からんロボのチュートリアルを聞きながら言われるがままに操作する中、突如、脳裏を掠めた違和感。

 

 

 

「ボタン多くね?」

 

 

 

どれだけ記憶の片隅の隅の隅の隅の隅から引っ掻き回しても、こんなにボタンとアクション(?)の種類が多い例が見当たらない。敵を撃ち、己は逃げる、それだけのはずが、何故これ程までに複雑なコントロールを要することになるのか、私には全く理解することができなかったのだ。

 

 

 

違和感は膨れ上がる一方で、不安だけが心を侵食していく。このままでは楽しむどころかどんどん苦しむことになる、そんな予感までした。悪い意味で願ってもないサプライズである。

 

 

 

とにかく実戦、やってみないと分からない、そう言い聞かせてログインするとちぇりこがオンラインになっていた。この時の心境を例えるならば、正に砂漠のど真ん中で知り合いに遭遇した時の安心、これに尽きる。

 

 

 

そしてド素人二人、トリオ(もう一人は野良のプレーヤー)で実戦に移ることとなった。

 

 

 

ここで私は2度目の不安感に襲われた。

 

 

 

「ちぇりこ、何故そげに果敢?」

 

 

 

ビビり散らかしながらアイテム収集ばかり行う私、対して、そんなアイテム収集ゲー野郎こと私を尻目に戦地へと向かう二人。

 

 

 

こういうところに性格って出てる気がするな、ゲームなんだから負けて負けて負け倒して強くなれるじゃん?みたいな。

 

 

 

いや、そやけども、そやけども、「負け」っていう結果が突きつけられることが辛いのであって、わたしは、そう、勝てばいいけど、勝てない、それは分かりきっている。

 

 

 

百戦錬磨の猛者どもの巣食う戦地に、こんな、生を受けて数時間の赤子同然のアマが放り出されて、負け戦、そう正に負け戦。おえええ

 

 

 

殺られることになんの恐れも抱かず走りだす二人を見ながら私はそんなことをぼんやりと考えていた(ぼんやりと考えていたせいで、迫るリングに追い越されてそのまま息絶えたダサーい時もあった)。

 

 

 

そして2日目、1戦目に私はまたリングに圧殺されたのであるが、ここでまず疑問なのだが、皆考え無しに突っ走っているように見えて何故迫るリングの境界線と激戦区(?)の判別ができるのか?

 

 

 

今のところ13回プレーして(13回しかプレーしてないくせにネガティブな事ばっかりいいやがってこいつ舐めんな、クソ、とか思わないで…思わないで…)、半分以上の割合で二人を見失って迷子になり、APEXが広大な自然の中を駆け巡るゲーになっちゃってる現象が起こっているのだが、これは、なに?(なに)

 

 

 

えどこから周ればそっちに行ける?みたいな方面に二人が消え去って、私一人で徘徊して、またアイテム収集ゲーになっちゃって、いそいそとアイテム収集してたら急に背後からキルされる、という件を何回やれば良いの?という、悲惨極まりない昨今。

 

 

 

かと思えば、まあ当然のことながらゲームする友達なんてほぼ皆無なため私自身野良でやってる訳だが、トリオでゲームしようとしたら何故か1人ぼっちのチーム(もはやチームとか呼ぶのもつらい)で戦地に放り出される、という私泣かせな状況が今晩で3度もあったし。頼る人いなかったら雑魚死まっしぐらだし。当然だし。なんなんほんまに。泣くし

 

 

 

という、開始早々挫折の連続、くしゃみの連続、目も痒いし、花粉症って辛いよね。

 

 

 

人生においてこんなに痛烈に敗北を感じたのが生まれて初めてで、軽くというか結構リアルにショック受けてて自分でもびっくりしてる。つらい。でも楽しい。けどつらい。鼻水とまんない。もうアレグラ一錠でどうにかなるわけないし。

 

 

 

ここまで嫌な事ばっかりよく書き連ねたなー、と我ながら思うけど、結論としては「もっとがんばるぞ」なわけなのでウケる。

 

 

 

でも、思わぬところで自分の思考の悪癖に気づくことも出来たし、なんだかんだ1日目は弾を当てることすら出来なかった私が、なんとか頑張って銃撃して相手に存在を気付かれ、そしてDIE…となれるところまでは来れたので、成長していないこともないのかもしれない。

 

 

 

未だに雑魚死、雑魚死、からの雑魚死(雑魚死が言いたいだけ)で、あーあおれもはやく20キルとか、言いたいなー、とか夢想しているけど、上手くなろうと思ってやってたら上手くなれる気もしてきた。

 

 

 

敗戦歴とか、やられた過去とか、気にしない人間になるって結構大変だなあと思う。「まずはやってみないと」、当たり前のことだと思ってたけど、小規模な「まずはやってみないと」は出来るのに規模がでかくなるとそれが出来ない(ゲームを大規模だと思ってる人間)っていうのはなんかダサいし、完璧な人間なんていないし…?

 

 

 

ということで、失敗・敗北からの学び、というものを、今から体現していこうと思う。

 

 

 

 

 

雑魚死の申し子、もっとがんばるぞー

 

 

湿気

 

 

幸せと「幸せじゃない」が交互にくるから、「幸せじゃない」が不幸みたいに思えてしまって損した気分になる

 

決して不幸ではなくても全然幸せじゃないのはデフォルトかもしれないけど勝手に思考回路走り回ってしまって余計なところまで徘徊して、結局傷だらけになって帰ってきて、癒えることもないまままた1日が始まってまた傷ばっかり増えて、そうやって日を追うごとに減りゆくHPと日増しに強くなる破壊衝動

 

抑えてもどこかでずっっと疼いてて、痒いのにピンポイントでここ、って所が分からない時の痒さに似た痛みが慣れる頃にはまた強くなるし、それでいて私はだんだん弱くなってるからやりようが無い

 

音楽が骨に響いてる時間は、自力で無理して生きようとしなくても音が勝手に心臓をいろんな方向から突いて、押して、刺して、代わりにやってくれるから、やっと本当に全身から力が抜けたような気になる

 

言葉は嘘がつける、言葉は嘘がつける、言葉は嘘がつける、今日ずっと頭の中を這いずり回ってたワード

 

欲しいもの欲しい環境欲しい気持ちなんかを手に入れるために人間は平気で嘘とか吐いてしまうんだろうし、実際自分もそうした事もあるし、わかってても因果応報だと言われてもそれはそうですよねと割り切れない

 

人間が矛盾を生むんじゃなくて矛盾そのものから人間が生まれたような気がする、寧ろそうであってほしい

 

ばかみたいに他人に期待してしまう時が多々あるけど、どうせ何をしても死ぬほど泣いても転ぶほど笑っても人はいずれ死ぬし、所詮人間なんてただの色気付いたチンパンジー

 

 

 

あー

 

 

色々考えあぐねてしまったけどとりあえず一回記憶改竄してくる

 

 

蝶が僕たちをさらいに来る

 

 

何でもかんでも「許す」考えが全人類が目指すべき境地だというのは間違ってる

 

と、思う

 

 

どんな考えでもどんな行いでも、それが良くても悪くても許せるみたいなの逆に許したくない

 

別にいいよ許してくれなくても、とかそう思ってる時点で「許す」「許さない」の観念で生きてるやんほらもうって

 

許すために悪いことするのも良いってこと?

 

じゃあ「悪いことって何か」って考えた時、「自分の行いで他人に身体的心理的、経済的関わらず何かしらの損をさせること」って仮定すると、割とすんなり話が進む気がする

 

でもそうなると、「法的にアウトでも誰も迷惑してないよね?」っていう反対勢力に降参することになってしまう

 

そういう話じゃなくて、っていう言い訳はあまりにも根拠が曖昧で、こういう話の割り方をすると議論が破綻するからそれは良くない

 

という事で、じゃあどうやったらこの屁理屈野郎を屈服させられるのか?

 

考えるために一旦「物事には必ず原因や理由がある」っていうセオリーの原点に回帰してみる

 

とりあえずここでは「法律は民を守るための盾として存在する」ことを前提として考えるとして、そうするとつまりは「今ある法律は全て何かしらの権利を守っている」ってことになる

 

てことは、「法を犯す=見えない誰か(何か)に損をさせる」なわけで、この「誰か(何か)」が犯した側と同じく人間であったり、或いは組織であったり、或いは動物であったりする

 

何故かその、先に出した屁理屈野郎達は相手が自分と同じ人間一人じゃなければ自分の犯した事は誰にも実害が及んでいないと思ってる節があったりして

 

自分が被る損害に関しては、他人一人の決定であっても組織や企業の決定であっても関係なく自分の損害を主張するくせに、自分が加害する立場になった途端に組織には何処にも人格が宿っていないと考え始めたりする

 

これはあくまで第三者視点からの意見なので友人知人の悪口でも文句でもなんでもないけど、そんな御都合主義の人間に「すべてを許す」とか絶対無理やと思うし、口先だけのそれなら言わないほうがはるかにマシだと思う

 

「全然気にしてないよ〜♩」って言いながら語尾に怒りマーク付けてる女子のアレと同類

 

人間は全知全能の神じゃないので、神になれる筈もないので、絶対に無理

 

神は神だから神なわけであって、人間は人間である限り、当然死んでも神にはなれない

 

大それた理想戯言譫言を口走る前にまずは「許す」「許せない」じゃなくて「共感できる」「共感できない」の分別をして、そこからじゃあ「共感できない」から住処を分けるのか「共感できない」けど共存するのか、そのための努力の意思表示をしてそれを行動に移すのかの決断をするのが先なんじゃないかなって

 

 

「許せる」とか言いながら「許せない」って言う人のこと白い目で見るのは何なのかなあ?

 

それって「許せない」人のこと許せてないよねって

 

無感情で流すことが「許す」なんだったら死ぬまで怒り狂って「許せない!!!」って夢の中まで追いかけ回されたほうが生きてるって思えるでしょ

 

知らんけど

 

 

分かり合えなくてもいいから「でも君が死んだら悲しいかも」って思ってたいな